塾長ブログ【福岡市東区香椎の学習塾、自立型個別学習塾HYBRID】

受け身の授業で生徒は頭を使わなくなる!?だから自立型個別学習塾「HYBRID」

『心構え×学習の質×反復回数』を成績アップの公式として掲げ、自立学習を推奨している福岡市の自立型個別学習塾「HYBRID (ハイブリッド)」塾長が歴史上の人物や各界の偉人たちが残した名言や教訓、塾長直々の学習方法に関するアドバイスを随時更新中。
「学校の授業についていけない」「塾に通ってもイマイチ結果が出せない」そんな生徒さんは集団指導でも個別指導でもない、新しい塾の学習スタイル『自立学習』を取り入れた学習塾「HYBRID (ハイブリッド)」で自ら学ぶ楽しさを体感して下さい。

11月24日(月)

【節】

我々の生活も
或る意味において「節」の連続といっていい。

我々の道義は、そういう点から言うならば「節義」だ。

そうして節には、小節もあれば、大節もある。

あるが、とにかく我々の生活は道義であり、節義である。

節の連続だ。

節を如何に完うするかということが
我々の道義、我々の精神生活、人格生活において一番大事なものだ。
『安岡正篤活学一日一言』より(致知出版社刊)

掲載日:2014/11/24トップページへ戻る

11月23日(日)

【「おかげさま」と「身から出たサビ」】


この頃(中学生)、特に忘れられない思い出があります。

教育大学の学生さんが教育実習に来た時のことです。

彼は柔道三段という腕前でした。
その人と練習で組み合うと、いとも簡単に投げられる。

受け身を取って一本にされるのは悔しいので、
私はちゃんと受け身を取らずに最後まで粘り、
変な手の付き方をしてしまった。
そのために、腕がボキッと折れてしまったのです。

実習の先生としてみれば、大変なことです。
部活動をしている最中に、生徒の腕を自分のせいで
折ってしまったのですから。

その日の夜、慌てたように先生から電話がありました。

電話を取ったのは母ですが、そばで聞いていると、
先生は受話器の向こう側で平謝りをしている様子でした。
しかし母はその時、こう答えたのです。


「いやいや先生、気にしないでください。
うちの息子の転び方が悪かったんだと思います。
怪我したのはうちの息子のせいです。
明日からも気にせず、いろんな子を投げ飛ばしてください」


その時の態度は、わが親ながら立派だと感じたものです。
母親からはあまり教えられたことはありませんが、
その出来事以来、私はいつも次のことを心掛けるようにしています。


何か悪いことが起こった時は「身から出たサビ」。
つまり自分のせいだと考える。

先生に投げられた時、自分がちゃんと受け身さえしておけば
怪我をしなかった。

そのために三か月ほど柔道ができなくなりましたが、
それも身から出たサビなのだと。


逆に、いいことが起こった時は「おかげさま」と思う。

確かに、自分が努力をしたためにうまくいくことはありますが、
実はその割合は少なくて、周りの人の助けがあって
初めて物事はうまくいくものなのだと思います。
山中伸弥(ノーベル医学・生理学賞受賞者)?

掲載日:2014/11/23トップページへ戻る

11月22日(土)

【自己改革】

人は自分が苦労して積み上げてきた
技法や立場を守ろうとそこに固執してしまいがちだが、

それでは新しい、
思い切った挑戦はできない。

一度自分自身を潰してご破算にし、
原点に立ち返って考えてみる。

そして一から組み立てていく。

いわば自己改革の繰り返しである。
北村武資(人間国宝/織物作家)

掲載日:2014/11/22トップページへ戻る

11月20日(木)

【感覚神経と自律神経】

道徳がないと、人間はだめになる。
ホルモン機能がないと人間はだめになり健康はだめになる。
神経でいうと、自律神経というものがないとだめになる。
感覚神経だけではだめ。
われわれの内臓はすべて自律神経で生きておる。
自律神経の中でも、特に大事なのは
迷走神経と抑制機能を司(つかさど)る神経系統で、
これが臍(へそ)の中心から1センチほど下のところ、
すなわち臍下丹田(せいかたんでん)というところに一番集まっておる。
刺激があった時にぐっと抑制をするのがこの神経である。
道徳とは感覚神経に対する自律神経の働きをするものであります。
だから欲望に対しては、克己的な働きになる。
道徳心を失ったら、
人間は放縦(ほうしょう)になり、軽薄になってだめになります。
『安岡正篤活学一日一言』より(致知出版社刊)

掲載日:2014/11/21トップページへ戻る

11月21日(金)

【躾】

躾(しつけ)という字はまことにうまくできている。
身体を美しくする、体をきれいにする、
人間の在り方・生き方・動き方を美しくするという、これは躾だ。
美しくするということは、つまり良くするということである。
食事でも作法というものは、自然なもので非常に美しい。
箸(はし)やお椀(わん)の蓋(ふた)の取り方でも、
作法通りすれば実に合理的である。
つまり、道徳とか躾というものは、人間の生活、人間の在り様、
人間の動き方というものをいかに自然にするか、
いかに真実にするかということである。
人間が獣でなくて人間らしく生きる道が道徳で、
それは極めて自然であって、理屈でも手投でもなんでもない。
真実、自然のことなのであります。
『安岡正篤活学一日一言』より(致知出版社刊)

掲載日:2014/11/21トップページへ戻る